内容

content

Content of article

私は一夜にしてムスリムになったわけではありません。事実、当初イスラームについて学ぶことは予期せぬ事でした。あるムスリムたちと知り合いになり、彼らの信条を理解したかったため質問をしました。私はイスラームの教えとキリスト教のそれに多くの共通点があることを発見し、驚いていました。私は、自分が見聞きした一部の「ムスリム」たちによる行為のみによってイスラームそのものを判断してはならないという理解に達しました。イスラームの真の教えについて学ぶためには、自分の偏見を捨て去り、心を開いて学ばなければなりませんでした。不幸にも、私はキリスト教徒とムスリム・コミュニティ間において相当な誤解があることを見い出しました。その責任の一部は双方による偏向的なメディアの報道姿勢、そしてそれら2つの宗教が説く道徳的行為の基準に則らないムスリムとキリスト教徒の各個人にあります。キリスト教の教えは「一般的な米国人キリスト教徒」の行動を観察するだけでは分からないように、イスラームを理解し、真理に到達するには一部のムスリムたちの行動にとらわれないことが必要であることに気付いたのです。誠実で友好的なムスリム女性との新たな友情関係によってそれは助長されました。私は読書好きなため、イスラーム関連の良書を探しに行きました。

当初私を最も驚かせたのは、ムスリムはイエス(彼に平安あれ)を愛し、かつ信じていることから、彼らにもキリスト教の教えの知識が一部あったことです。私は「イスラーム」という言葉が逐語的に、神の唯一性と神への服従といった、神への信仰を通した平安を意味するということを学びました。それゆえイスラームは、ムスリムが信仰しなければならない過去の預言者たちの説いたものと同一の宗教であるということを主張します。それらの預言者たちには、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーゼ、ダビデ、洗礼者ヨハネ、イエス(彼らに平安あれ)が含まれます。クルアーンはこう述べています。

 “あなた以前にも、われが遣わした使徒には、等しく、「われの外に神はない、だからわれに仕えよ。」と啓示した。”

(クルアーン21:25)

イスラームは婚姻を性的な貞操を保つものとして、そして人生における幸福と慰安を達成するための手段であるとして推奨します。婚姻は男女双方に権利と責任を有する契約として見なされます。婚姻によってムスリム女性は名字や私財を失ったりすることはありません。実際、イスラームは私が以前思っていたような女性の抑圧をするのではないことに気付きました。ムスリム女性は千年以上も前から、西洋の女性が近代に入ってようやく得ることの出来たような権利を有していたのです。

また私は、イスラームの追従者たちが行う神の崇拝法は、バイブルにおいて述べられている方法と極めて似通った方法で行われていることを知りました。ムスリムは聖クルアーンの言葉を朗誦して礼拝を行います。

 “慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。

万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、

慈悲あまねく慈愛深き御方、

最後の審きの日の主宰者に。

わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。

わたしたちを正しい道に導きたまえ、

あなたが御恵みを下された人々の道に、

あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道ではなく。”

(クルアーン1:1−7)

キリスト教徒は聖クルアーンにおいては啓典の民として言及され、そこで直接語りかけられています。

 “啓典の民よ、わたしたちとあなたがたとの間の共通のことば(の下)に来なさい。わたしたちはアッラーにだけ仕え、何ものをもかれに列しない。またわたしたちはアッラーを差し置いて、外のものを主として崇ない。”(クルアーン3:64)

キリスト教徒とユダヤ教徒は彼ら自身の啓典によって、クルアーンとムハンマドの預言者としての真実性について導かれるのであるとクルアーンは呼びかけます(2:146、5:41−47、7:157)。私はこの「挑戦」を受けて、自分のバイブルには本当にイスラームが神を由来とするものとしているのかどうか、確かめてみようと思いました。

イスラームで説かれる、神の唯一性についての証拠はバイブル全体から見い出すことが出来ます。申命記(32:39)ではこう述べられています。「わたしの他に神はない。」イザヤ書(43:10)にはこうあります。「わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。」出エジプト記(8:10)はこう述べます。「我々の神、主のような神がほかにいない」(8:6)また、エレミヤ書(10:6)にはこうあります。「主よ、あなたに並ぶものはありません。」

同様のことを述べる章句は、申命記(4:35、4:39、6:4)、イザヤ書(45:5、45:21−22、46:9)、第2サムエル記(7:22),第1列王記(8:60)、歴代誌上(17:20)、詩篇(86:8、89:6、113:5)、ホセア書(13:4)、ゼカリヤ書(14:9)から見い出すことが出来ます。また、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」と聞かれたイエスは、こう答えています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。」(マルコ12:28−29)イエスの使命後でさえ、イエスの弟子たちは神の唯一性を理解していました。その証拠は使徒書簡の全体を通して発見することが出来ます。「実に、神は唯一だからです。」(ローマ人3:30)「唯一の神以外にいかなる神もない。」(第1コリント使徒8:4)「神は唯一」(エフェソ人4:6、第1コリント使徒8:6、テモテ2:5)また、パウロはヤコブ(2:19)にこのような手紙を書いています。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。」

イスラームとキリスト教が異なっていることは、イエス(彼に平安あれ)の性質とは関係のないことです。イスラームがシンプルかつ論理的であることを見出した私は、それ以外の問題についてはムスリムと合意することが出来ました。イエスが神の子であり、三位一体の一部であるということは、大半のキリスト教徒たちにとって必須の信仰箇条であり、イエスが神ではなく、名誉ある神の預言者だということは、すべてのムスリムにとって必須の信仰箇条です。私は(キリスト教徒としての信仰を続けるためには)、バイブルが三位一体(つまり神は唯一でありながら、3つの同位者がそれぞれが独自の性質を持っているということ)を明白に主張していることを証明しなくてはなりませんでした。そして三位一体の一部は神の子としてのイエスが含まれます。しかし、真剣に調査をしてもバイブルの中からは三位一体の根本となるものは見つけられませんでした。イエス、または彼以前に遣わされた預言者たち(彼らに平安あれ)が一人として三位一体を説いたという証拠も見つかりませんでした。彼らは皆、一神教を説いたのです。すべての預言者たちが神の基本的な性質について無知であり、真の宗教から道を外していたということはあり得るのでしょうか。もちろん、そんなことはあり得ません。更なる調査から、「三位一体」という言葉自体、バイブルの中で一度も出て来ないことが分かりました。長年に渡ってそれに正当性を与えていると思われてきた章句は、新約聖書の古いテキストには全く含まれていなかった(つまり後世になってバイブルに付け加えられた)ことから、改訂標準訳聖書やその他の訳本から除去されてしまいました。次に、欽定訳聖書のヨハネの手紙一(5:7)にある章句です。「父、言葉、精霊、これら3つは1つである。」

キリスト教の資料によると「三位一体論には様々な概念があります。しかし、一般的に三位一体の教えとは、神に父・子・聖霊という3つの人格があるというものです。それらが合わさった上でも、神が唯一であることに変わりはありません。教義上、それらは同格・全能・非創造物であり、神として永久に存在し続けてきたのです。」(ものみの塔)これが、大半の教会の根本的教義なのです。三位一体論を合理的かつ論理的に説明する方法が存在せず、3つは分離しているにも関わらず、それは1となるのです(1+1+1=1!)。大半の教会は、この教義は証明することの出来ないものであり、盲目的に信仰されなければならない「神秘」であるとします。しかし、バイブルの中で明白に説かれてはいないにも関わらず、なぜ、そしていかにそういった教義を信仰しなければならないのかという疑問が湧いてきました。それがバイブルの教えでなければ、一体誰の教えなのでしょうか? どうやら、三位一体論はイエスの神格性を正当化するために発展した概念であるということが分かってきました。それで、私はイエスの神格性に関する証明をバイブルの中から探し始めることにしました。

コメント