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イスラームにおける礼拝の重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはありません。それはイスラームの一番目の柱であり、預言者(神の慈悲と祝福あれ)はその重要性が、人をムスリムとする「信仰証言」に次ぐものであると言及しました。それは、あらゆる預言者たちと人々に対して義務とされたものです。神はその義務性を高らかに宣言しており、たとえば神はモーゼに直接語りかけたとき、こう述べています。

 “われはあなたを選んだ。だから(あなたに)啓示することを聞け。本当にわれはアッラーである。われの外に神はない。だからわれに仕え、われを心に抱いて礼拝の務めを守れ。”

(クルアーン20:13−14)

同様に、預言者ムハンマドの天国への昇天の際にも、礼拝は義務化されています。さらに、「信仰者たち章」という章の序章で神が信仰者を称賛するとき、その特徴のひとつとして、礼拝に忠実であることが述べられています。

ある男が預言者に対し、最も徳のある行いについて尋ねました。預言者はそれが礼拝であると答えています。その男性は同じ質問を3度繰り返し、預言者はそれぞれに「礼拝である」と答えたものの、4度目になると預言者はこう答えています。「神の道におけるジハードである。」

礼拝の重要性は、多くの預言者の発言から見て取れます。たとえば、預言者はこのように述べています。

 “審判の日、しもべが精算される最初の行いは礼拝である。それが完全であるなら、残りの行いも完全なものとなろう。それが不完全であれば、残りの行いも不完全なものとなろう。」

礼拝の重要性は、人の人生の中でいかなる行いをしようとも、最も重要な面とは神との関係、すなわち信仰心(イーマーン)、神への畏怖心(タクワー)、誠実さ(イフラース)、そして神への崇拝(イバーダ)なのです。そうした神との関係は、礼拝によって明示され、実践され、増加や減少をするのです。それゆえ、預言者自身が述べたように、もしも礼拝が完全かつ適切なものであれば、残りの行いも完全かつ適切となり、礼拝が不完全かつ不適切であれば、残りの行いも不完全かつ不適切となるのです。

現実的に、礼拝が神への想念、そして赦しを請い願いつつ適切に行われたのであれば、それは礼拝者に対して絶え間ない影響を与えるでしょう。礼拝を終えると、彼の心は神への想念で一杯になるはずです。彼は神に対する畏敬の念で満たされると共に、神への希望を持つはずです。そうした経験をすると、神への従順的な高い地位から神への不従順という地位の下落をしたいとは思わなくなります。神は礼拝におけるそうした側面についてこう言及しています。

 “本当に礼拝は、(人を)醜行と悪事から遠ざける。”

(クルアーン29:45)

ナドウィーは、そうした効果を次のように雄弁に語っています。

その目的とは、あらゆる悪や誘惑と対峙させ、試練や逆境を乗り越え、自身を生身の弱さからまもり、節度ない欲望の損害を受けぬよう、人間の潜在意識下に精神力、信仰の光、神への意識を引き起こすことです

礼拝を適切に行うことによって人に与えられる全体的影響は、クルアーンにおける他の節でも語られています。

 “人間は本当に忙しなく創られている。災厄に会えば歎き悲しみ、好運に会えば物惜しみになる。だが礼拝に精進する者は、そうではない。”

(クルアーン70:19−22)

来世に関しては、神の赦しと満悦は礼拝と密接な関係を持っています。神の使徒は次のように述べています。

 “神は5回の礼拝を義務付けられた。誰であれきちんとお清めをし、時間内に礼拝をしつつクシューウをもって立礼し、額づくのであれば、神はその人物への赦しをお約束になるだろう。そして誰であれそうしなければ、神からの約束はないのである。そうなると、神はその人物をあるいはお赦しになるかもしれないし、お赦しにならないかもしれない。”

礼拝は人にとって一種の浄化作用をもたらすものです。人はそれを通して1日に5回、主へと立ち返り、向かい合います。上述のように、神の御前に立つことは、人を悪行から遠ざけます。さらに、罪を犯してしまった際には、その罪に対する後悔と悔悟の念を呼び起こし、神に真摯な赦しを請う時間となります。また、礼拝そのものは過去の悪行の一部を打ち消す善行ともなるのです。これらの点は、預言者(神の慈悲と祝福あれ)にまつわる以下のハディースから見て取ることができます。

 “「もしもある人物の家の門前に川が流れており、そこで1日5回身体を清めたなら、彼には汚物が付着していると思うだろうか?」人々は言いました。「彼にはいかなる汚物も付着していないでしょう。」すると預言者は言いました。「1日5回の礼拝とはそういうことなのだ。それらによって神は人の罪を洗い流すのである。」”

(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)

別のハディースでは、預言者はこう述べています。

 “1日5回の礼拝、また金曜礼拝から次の金曜礼拝までは、それらの間に起きたことの贖罪となるのである。”

(サヒーフ・ムスリム)

  1. アフマドとイブン・ヒッバーンによるハディース集より。アル=アルバーニーはそのハディースにハサンの格付けをしています。参照:Muhammad Nasir al-Din al-Albani, Sahih al-Targheeb wa al-Tarheeb (Beirut: al-Maktab al-Islami, 1982), vol. 1, p. 150
  2. アッタバラーニーによって記録された伝承。アル=アルバーニーはそのハディースにサヒーフの格付けをしています。参照:Al-Albani, Sahih al-Jami, vol.1, p. 503.
  3. ナドウィー、24頁。
  4. 礼拝における「クシューウ」とは、礼拝する者の心が礼拝に集中している状態を示します。そうした心の状態は身体にも表れます。その人物は穏やかに静止した状態になります。また、視線もうつむきます。その人物の声もそうした心の状態に影響されます。この概念(そしてクシューウとクドゥーウの相違点)については、次をご参照ください:Muhammad al-Shaayi, al-Furooq al-Laughawiyyah wa Atharahaa fi Tafseer al-Quran al-Kareem (Riyadh: Maktabah al-Ubaikaan, 1993), pp. 249-254.


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