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5. イスラームの教えとは何か?

イスラームの信仰の基礎は絶対的唯一神の信仰です。これはかれ以外に崇拝に値するものや神聖なものは何もなく、宇宙の全ての創造主かつ維持者は唯一であることを意味します。事実、神の唯一性を信じることとははただ単に“唯一神”を信じる以上のことであり、二つ、三つ、四つといった複数の神を信じることとは全く対照的です。多くの宗教が“唯一神”信仰を標榜し、宇宙の創造者、維持者はただ一人であると言いますが、本当の一神教とは神が遣わした使徒に従って、唯一神のみが崇拝されるべきであることを信じることです。イスラームは神と人との間のあらゆる仲介者を拒否し、全ての人々が神に直接近づき、そしてかれだけに全ての崇拝行為を向けるように強調しています。またムスリムは全能の神が思いやりのある、愛情に満ちた慈悲深い神であることを信じています。

よくある間違った考え方の一つに、神はその被造物を直接お赦しにはならない、というものがあります。罪の重荷と罰の過剰な強調、また神は人間を直接赦すことが出来ないという主張は、時に人々を神の慈悲に対して絶望的にさせます。そして一旦神に直接近づくことが出来ないと確信すると、人は英雄や政治家、救世主、聖人、天使など偽の神々に助けを求めるようになります。私たちはしばしばこれらの偽の神々を崇拝し、それらに祈り、またそれらにとりなしを求める人々を見出します。彼らは唯一神の信仰を主張しますが、ただ神に近付くために神以外のものに祈ったり崇拝したりするだけなのだ主張します。イスラームでは、創造者と被造物に明らかな違いがあります。神性の問題に不明瞭さなどありません。いかなる被造物も崇拝に値するものはなく、創造主であるアッラーのみが崇拝に値するのです。ある宗教は神自身がその被造物になったのだと誤解してしまい、それゆえに創造主に近付くためには神以外の何らかの被造物を崇拝することが出来ると人々に信じさせてしまったのです。ムスリムは神が唯一であり理論的理解を超越した至高の存在であると信じていますが、決してかれに仲間や共同者、対等者や競争相手、子孫などはないのです。ムスリムの信仰によればアッラーは文字通りの意味でも寓話的意味でも、また比喩的意味でも物質的・形而上的意味においても、“御産みなさらないし、御産れになられたのではない”のです。かれは完全に唯一で永遠です。彼は全てをコントロールしていて、その無限の慈悲と赦しを誰でもかれの選んだ者に与えることが可能なのです。これがアッラーが全能で最も慈悲深い方と呼ばれるゆえんなのです。アッラーは人間のために宇宙を創造し、全人類のために最善のものを創造しました。ムスリムは全宇宙の中に全能の神の創造性と慈悲心の印を見出します。また、アッラーの唯一性への信仰はただの形而上的概念ではありません。それは人間性、社会、そして実生活の全ての側面に渡る考え方に影響するのです。アッラーの唯一性に基づいたイスラーム信仰の論理的帰結は、人間性と全人類の唯一性への信仰です。

6. クルアーンとは何か?

クルアーンは至高なるアッラーご自身により、大天使ジブリエルを通して預言者ムハンマドにアラビア語の音色と言葉と意味でもって伝達された、全人類に対するアッラーからの最後の啓示です。クルアーンは(しばしば誤ってコーランとされる)はその後、預言者の教友たちへと受け継がれましたが、彼らはそれを勤勉に暗記し、正確かつ綿密に書におこしました。クルアーンは預言者の教友たちとその後継者たちによって、今日まで継続的に暗唱されてきました。要約すると、クルアーンはアッラーから全人類への導きと救いのために啓示された神の啓典なのです。

今日でもクルアーンは多くの人により暗記され、学ばれています。クルアーンの言語であるアラビア語は、今でも大勢の人に話されている生きた言語です。他のある種の宗教の啓典とは違い、クルアーンは現在も数多くの人々に原典そのままの言語で読まれ続けています。クルアーンはアラビア語において生きた奇跡であり、模倣不可能なその文体、精神的インパクト、またそこに含まれる独特な知識で知られています。クルアーンは預言者ムハンマドに23年間に渡り、連続した啓示として伝えられました。他の多くの宗教書とは対照的に、クルアーンは常にアッラーの正確な言葉として信じられてきました。クルアーンは預言者ムハンマドの生存中も、そしてそれ以後も、公共の場においてムスリム、非ムスリム大衆両方の前で暗唱されてきたのです。

また全クルアーンは、預言者の数多くの教友によって一字一句啓示された通りに暗記され、また預言者の生存中に完全に書き留められました。クルアーンは常に一般信者の手に会ったのです。またクルアーンは常に神の言葉として考慮され、広まった暗記により完全に保存されたのです。そこには、宗教委員会などにより変更されたり新たに定められたりしたいかなる箇所もありません。またクルアーンの教えは‘選ばれた人々’や特定の部族などではなく、全人類への万人の啓典として構成されています。そこには何も新しいものはなく、ただ“唯一神アッラーに服従し、かれのみを崇拝し、そして現世の成功と来世での救いのためにアッラーの使徒たちに従う”という他の全ての預言者と同一メッセージが含まれているだけなのです:このようにクルアーンにおけるアッラーの啓示は、人類にアッラーの唯一性の信仰と、また彼らがイスラーム法の中で明確にされたアッラーの導きに沿ってその生活を形作ることに重点を置いています。クルアーンにはノア、アブラハム、モーゼ、イエス(彼ら全てに平安がありますように)など以前の預言者たちの説話と同様に、神からの命令と禁止事項も含まれています。多くの人々が疑いや精神的絶望、そして社会・政治的疎外に巻き込まれているこの現代において、クルアーンの教えは今日の私たちの生活の空虚さや世界の注目を集めている騒動の解決策を示しています。

7. ムスリムは人間の本質、人生の目的、そして来世の生活についてどのように考えるのか?

聖クルアーンの中でアッラーは、人間はかれを崇拝し称えるために創造されたのであり、そして真の全ての崇拝行為の基礎は神への自覚であると教えています。アッラーの全ての創造物は先天的にかれを崇拝していますが、人間だけが創造主であるアッラーを崇拝するかそれを拒否するかの自由意思を持っています。これは偉大な試練ですが、同時に偉大な名誉でもあります。イスラームの教えは生活や倫理など全ての側面を網羅しているので、神を自覚することは人間の全事象において推奨されています。イスラームは、もし何らかの行為を神の神聖な啓典と法に従って神のためだけに行ったのであれば、いかなる人間の行動でも崇拝行動になりうることを明確にしています。イスラームでの崇拝行為は宗教的儀式だけに限らないことから、イスラームは宗教というよりはむしろ‘生き方’と言った方がより正確でしょう。イスラームの教えは人間の魂に癒しや慈悲を与えており、また慎み深さや誠実さ、忍耐強さや慈善の精神などといった特性が強く推奨されています。また全能の神だけが人間の公正を審判することから、イスラームは高慢さや独りよがりを非難しています。人間の本質についてのイスラームの考えもまた現実的でバランスのとれたものです。人間は本質的に罪深いとは考えられていませんが、善悪の両方であることが同等に可能であるとみられています。それは彼らの選択なのです。イスラームは信仰と行動は連動していると教えています。神は人々に自由意思をお与えになられました、そして人の信仰はその行いと行動により量られるのです。しかしながら人間は生まれつき弱く、かつ罪に陥りやすく創造されたので、アッラーが望まれる崇拝行為の一形式でもある継続的な導きと悔悟を必要としているのです。神のその威厳と英知によって創造された人間の本質は、生まれながらに‘堕落’しているのでも、矯正が必要なわけでもありません。改悛の道は常に全人に向けて開かれているのです。全能の神は人間が過ちを犯すことをご存じであり、ゆえに本当の試練は彼らが罪を後悔してそれを断ち切るか、あるいは彼らがそれが神が御悦びにはならないことであることをよく知っていながらも、罪と適当さの人生を優先させるかということにかかっているのです。

イスラーム的生活の本当のバランスは、犯罪や罪に対するアッラーの公正な罰に対する健全な畏れと、私たちの善行とアッラーへの真摯な崇拝ゆえにかれがその無尽の慈悲でもってその報酬を悦んで与えてくれるということへの誠実な信仰の上に成り立っています。アッラーへの畏れのない生活は人を罪や不従順へと導き、また神がお赦し下さらないほど多くの罪を犯してしまったなどと信じることはただ絶望へと人をいざなうのです。イスラームはこの真実を考慮して、神の慈悲への間違った絶望と邪悪な犯罪者のみが創造主で審判者であられるアッラーへの畏怖の念に欠けていると教えます。また預言者ムハンマド(彼に平安あれ)に啓示された聖クルアーンはまた、来世での生活と審判の日についての莫大な量の教えを含んでいます。ムスリムは全人類が最後に絶対的統治者そして審判者であられるアッラーにより、彼らの信仰と現世的生活での行動に関して裁かれることを信じています。崇高なるアッラーは人間を裁かれる際に、本当に罪深く反抗的で後悔のない犯罪者のみを罰し、またかれの英知によってその慈悲に値する者をそれでもって裁くのであり、完全に慈悲深く、かつ完全に公正なお方なのです。誰も彼らの能力以上のことや、または実際にしなかったことについては裁かれません。全ての人間がアッラーの御前で彼らが現世で行ったことの責任を問われるということは、イスラームが人生の創造主であり全能で最も賢明であるアッラーにより設計された試練であると教えていることを十分伝えています。来世の生活への誠実な信仰こそは、バランスのとれた道徳的生活へ導く鍵です。この信仰がなければ人々は人生をそれっきりのものと見なして自分勝手になり、倫理や道理を犠牲にしてさえも盲目的快楽を追及するという物質主義的かつ不道徳な状態に陥ってしまうことでしょう。

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